人に教えるということ

以前から思っていたこと。
人に教えるということはとても難しいということ。内容について言えば、自分が200%理解していることしか伝えられないものです。昨日今日聞きかじったような知識では、聞き手の髄まで納得させることは難しいだろうということ。今日は”人に教える”ということについて、あらためて考えてみました。

教えることを仕事にしている方はたくさんいます。生涯で考えてみればそういう方に初めて出会うのが幼稚園や保育園。幼稚園や保育園の先生は教えるというより、安全管理メインのお仕事のような気がするのであまり教えるということとは関係ないかもしれません。次に出会うのが小中学校の先生。小学校や中学校の先生というのは、小学生や中学生の生活指導以外の勉強面ではマニュアルに沿った内容を教える仕事であり、どの先生から学んでもそれほどの変わりはないはず。と言うより、先生によって教える内容が大きく変わってはならないはず。
一方、その頃出会うピアノの先生や書道の先生というのはどうでしょう? 先生の持つスキルはもちろんそれぞれ違いますし、教える幅も内容も異なって当然。その分野で上を目指す人は、師を選ぶわけです。
この時代、セミナー講師 という職業名を名乗る人は少なくありません。講師養成講座 というなんだかわからない講座があったりもします。
本来、小学校や中学校、自動車学校などマニュアル内のことを教える先生以外の”先生”というのは、教えて欲しい と懇願されてその方が持つスキルや知識を伝えていったものではないでしょうか。そう考えると私には、自分から”私はセミナー講師です” と名乗ることほど烏滸がましいことはないように思えてしまったり…。もちろん請われて教えておられるセミナー講師もいらっしゃるでしょうから、例外はあるでしょうけれど。
なにかひとつのことを一生懸命続けてきて、気づいたらその分野に秀でたからこそ、他の人から教えてもらいたいと頼まれる。これが”人に教える”ということの根本なのかなと思ったり。
私が初めて人になにかを教えたのはまだ名古屋にいたころ、医者になってすぐのころでした。特別養護老人ホームなどで働く介護士向けのからだに関する授業を担当しました。医者だったら誰でもいい、多分そんな依頼だったろうと思います。
その後は慈恵の看護学校の講師。産婦人科学を担当していました。ここではキャラクターの影響が大きかったかも知れませんがいつも大人気でした。のちに、看護師となって大学病院で働くようになった当時の看護学生で 学生のころ先生の講義聞いたんです、いつも楽しみでした と言ってくれた子もいたりしました。
この頃が、私の”人に教える”というベースになっているのだろうと思うと、とてもありがたい経験だったのだと感謝したくなります。

私自身、医者にしてもヨガの指導にしても、ゴールや頂上なんてまったく霧の向こう もしくはゴールなんてそもそもない そんな中で、自ら望む望まずに関わらず人に教えるという仕事をさせていただいています。
伝えたいことは箇条書きできるくらい明確に、絶対に正しいこと 正しいだろうと思われること 間違っていること この区別はクリアに。この2点には特に気をつけて話してはいますが、それとは別に、人に教えるという立場だったとしてもいつも謙虚に、そして弱い人、困っている人、これから困ってしまうであろう人、そんな誰かの役に立つと間違いなく信じられる事を伝えていきたいです。そして”人に教える”ことを生業にされている多くの方も、そんな思いでいていただけたら、なんて願いたいものです。

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