人が必要とする優しさは 人によって違う

最近私が自分自身、少しうれしいなと思うことをお話しします。

JRの駅の混雑は今に始まったことではありません。時間帯によっては満員電車に近いようなスポットを通過しないと進めないような場所もあります。そんな中で、白いつえを持った視覚障がい者の方が点字ブロックを見失い困っている場面によく出会います。

最近の私は、臆することなくその方に声をかけることができるようになりました。以前はほとんどの人と同じように、声をかけて断られたら、とか、まわりの人の目が気になる、とかいう気持ちが先に立って、一歩を躊躇しているうちに機を逃すことが多かったです。自分自身のこの変化が、とてもうれしく感じられるのです。
今では、まずその方にはっきり聞こえるように「お手伝いしましょうか?」と声をかけ、同意をいただけたら 「おからだに触りますね」 と断ってから一緒に動くようにしています。

この行為自体、本来は優しさでもなんでもなく、目が見える者ができる『普通のこと』でしょう。でも、視覚障がいの方にとっては『優しさ』に思えたかもしれません。

先日、通勤途中の混雑する階段で派手にころんで、誰も手を出してくれなかったどころか、声もかけてもらえなかった、とイーク表参道のNsが言っていました。東京はそんな街なんでしょうか。地方だと、もっとあたたかかったりするのでしょうか。いつもはなにも困ることがないそのNsも、ころんだ時にはきっと人の『優しさ』がほしかったはず。

4月から仕事の環境が変わり、からだが辛かったり気持ちがつらかったりした人に、まだキャパオーバーでないかを確認したうえで、あなたなら大丈夫、あなたならまだがんばれる、そうエールを送ることは、その人への気持ち、その人への『優しさ』だと思っています。

人の立場、時、置かれた環境によって、その人が必要としている『優しさ』は違います。
目の前にいる人に、今どんなことが『優しさ』として届けられるのか、それを私はいつも考えて過ごしたい。そう思っています。

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