人はあたたかくもあり 残酷でもある

ある運動指導者のつらい過去を知る機会がありました。その仕事に就いてすぐの頃からの壮絶な嫌がらせ、いじめに近いような攻撃、もちろん当時を知らない私がそのつらさすべてを知る なんてことは無理なわけですが、現在の状況や選択から慮るに 相当なものだったのだろうと推察されます。

今ではもっともつらかった時期を過ぎ、本人なりに一番安全で平和な環境を厳選することで、ちゃんと仕事を続けていけているそうです。もちろん運動指導者としての仕事ができる喜びを感じながらも、もっと違った環境を夢見ることもあるでしょう。しかしそこはちゃんと我慢をし、支えてきてくれた家族やまわりの人の思いに応えるべく、がんばっておられるとのこと。

人生の楽しみは人との出会いであり、その出会いから生まれる時間や空間のくり返しによって、自分の心や経験が豊かなものになることが望ましい。

でも、せっかくの出会いがあったのにも関わらず、刃物で傷つけるより残酷にもなれてしまう、これも人です。

先日、大事に乗っていた自転車をスーパーで盗まれてしまった友だちと話しをしていました。

友 「どんな気持ちで人のものを盗むんだろう?」 

意気消沈している友だちからそう尋ねられた私は

私 「便利のためだよね、自分勝手な便利のため」そう答えました。

友 「ダメって気持ちはないのかな?」

私 「あるでしょ!でも、負けちゃうの。」

友 「ダメって気持ち、ないから盗めるんじゃないの?」

私 「誰しも、ほんのちょっとはあると思うよ、良心。ほら、性善説だから。」

こんな会話。

その時、生活に大きな影響をもたらす自転車どろぼうに遭ったばかりの友だちは「性善説」を認めてくれませんでしたが、人には誰にだって良い心があると私は思っています。それでも、時に悪い心に塗りつぶされてしまう。そんな瞬間に、いかに良い心を盛り返せるか。これは人生の中でトレーニングできることだとも考えています。

でも、今回感じた運動指導者の方のつらかった時間を思ったとき、本当に人は残酷なものだと感じざるを得ませんでした。なぜ? 何が悪いの? どうしたらいいの? きっとどの問いにも答えはないわけです。そもそも なにも問題がないのに、攻撃に曝され 謂れのない誹謗中傷を受けたわけですから。

良い心と悪い心の切り替えスイッチも、本来は私たち自身が握っているもの。人とはあたたかいものだ そう感じられる出会いにあふれる世の中になっていきますように。そのためには、私たち自身が自分の感情は自分でコントロールできるものであるということを知り、刹那的な感情に埋めつくされる隙を与えないこと かもしれません。

受けた傷は長い時間が経ったからといって、完全に癒えるものではないことも知っています。ただ、ひとつ言えることは、そこに留まりつづけることは決して得策ではない ということ。自転車を盗まれた、盗まれたという事実はとても残念なことですが、盗まれたことに執着しつづける気持ちの方が残念だから。心の傷を負った、そのことはとてもつらく思い出せば涙が出るほどでしょうが、私たちは変わっていける生きものですから。小さな一歩一歩であったとしても、私たちは必ず変わっていけるから。

身の安全を担保した上でちゃんと前を向いて日々に取り組む姿勢を、遠くからであったとしても応援したいと思います。

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