大震災から2年

日本のみならず、世界にも大きなショックと衝撃を与えた東日本大震災から2年。

2011年3月11日 ちょうどその時、私は都内の総合病院に産婦人科医として勤務していました。
その日は金曜日でしたね。

早朝から進行中だったお産がなかなか思うように進まず、母体の体力も限界、児の心音にも変化が認められ、やむなく帝王切開での分娩を決定したのが午後2時半前。
午後2時45分 手術室へ入室し、手術室のベッドで麻酔を開始した直後の大きな揺れでした。

手術室の床というのはツルツルで、血液が付着しても掃除がしやすい材質であること、機材の足もとには移動しやすいようにキャスターが取り付けられていること が災いして、手術室内のほとんどすべての物品が流れました。

本当に 「流れる」 という表現が一番合っているほど、麻酔器も、点滴棒も、赤ちゃんを入れるためのクベースという容器も、麻酔科Drのための丸イスも、レントゲンを掲げるシャーカステンも、すべてのものが揺れのたびに位置を変え、唯一動かなかったのは、コンクリートで床に埋め込まれている手術台のみ。

その手術台の上には、陣痛が時折やってくる不安げな妊婦さんが乗っています。

さらにその上、手術室の天井には、無影灯と呼ばれる強力なライトがぶらさがっています。
このライトは、地震の揺れのたびにぶらさがっている根本から揺れ、相当な重量があるこのライトが妊婦さんに落ちたとしたら、打撲程度ではすまないだろうと思われました。

私たち医療者よりも、もっともっと不安なのは 妊婦さんです。急に帝王切開が決定し、家族と別れ、ひとり手術室に入れられた直後に体験したことのない大きな揺れ。いつまでもおさまらない揺れ。

私は何も考えることなく、妊婦さんのおなかを抱くように、手術台に覆いかぶさりました。そして、なんの根拠もないのに、
「大丈夫だよ、心配ないからね。病院の中で、手術室が一番 頑丈に作られてるんだから」
そう妊婦さんにくり返し言い聞かせていました。

そのうち、スタッフのだれかが手術室に持ってきたラジオで、未曽有の大震災を知ることになったのでした。

余震はいつまでも続きました。本来であれば、揺れがおさまるのを待つべきではありましたが、妊婦さんをいつまでもこのままにしておくことはできず、最短時間で麻酔をし、最短時間でbabyを娩出しました。

今でもよく覚えています。
生まれてきたbabyのおとうさんは、お笑いの仕事をしている ポリスなんとか って方で、おかあさんはとってもかわいらしい若い方でした。
おとうさんは、まだまだ余震が残る中病棟に戻ってきた私たちに、涙ぐんでお礼を言ってくださいました。

手術室から戻ってみると、地震の大きさがより現実のものとなって襲ってきました。新しいとはいえない病棟の渡り廊下の壁は落下し、粉ぼこりをあげており、通行できないようになっていました。上層階の水道管が破裂したため、水浸しになっているという放送が何度も流されました。医局の机の上は、本棚から落下した教科書類でめちゃくちゃになっていました。

2年がたった今でも、鮮明によみがえってくる一日でした。

東日本大震災で失われたたくさんの命に思うこと。
今こうして元気に生かされている私たちには なにができるのか。これからの日本のために、世界のために、どうよりよく生きていくか。

原発の事故も含め、振り返ることももちろん大事ですが、これからどうしていくことがbetterなのか。
2年後、5年後、10年後、30年後 をイメージしながら日々をすごしていきたいと思います。

合掌。

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